はじめに:性感染症(STI)治療の基本原則と正しい知識
性感染症(Sexually Transmitted Infections: STI)は、性行為を通じて感染する病気の総称であり、特別な人だけが罹る病気ではありません。日本国内でも患者数は増加傾向にあり、誰にでも起こりうる身近な健康問題です。しかし、デリケートな問題であることから、正しい知識が不足しているのが現状です。
性感染症の中には、自覚症状がほとんどないまま進行するものも多く、放置すると不妊症や子宮外妊娠、胎児への影響など、深刻な合併症を引き起こす可能性があります。市販薬で一時的に症状が和らいでも、原因菌やウイルスが完全に排除されていないため、再発や他者への感染リスクが残ります。そのため、自己判断で対処することは非常に危険です。
性感染症の治療においては、まず専門医による正確な診断が不可欠です。この記事では、主要な性感染症の種類と、それぞれの病原体に応じた適切な治療薬について、専門的な観点から詳しく解説します。薬の種類、その作用機序、治療期間、そして治療後の注意点まで、科学的根拠に基づいた情報を網羅的に提供します。この記事を通じて、性感染症に対する正しい知識を身につけ、ご自身の健康を守る一助としてください。
1. 性感染症(STI)の診断と治療の基本原則
性感染症の治療は、正確な診断から始まります。自己判断による市販薬の使用は、病状を複雑化させ、薬剤耐性菌を発生させるリスクがあるため、絶対に避けるべきです。
【正確な診断の重要性】
医療機関では、以下の手順で診断が行われます。
- 問診と視診: 症状の有無や性行為の状況、パートナーの感染歴などを詳しく聞き取ります。性器や口腔内の病変を直接観察することもあります。
- 病原体検査:
- PCR法: 尿、うがい液、分泌物などを採取し、病原体の遺伝子を増幅させて検出する方法です。クラミジアや淋病、HIVなどの診断に用いられ、非常に高精度です。
- 抗原・抗体検査: 血液を採取し、病原体そのもの(抗原)や、体が作った抗体があるかを調べる方法です。梅毒やHIV、B型肝炎などの診断に用いられます。
- 培養検査: 患部の分泌物から病原体を分離・培養し、特定します。
- 顕微鏡検査: 患部の分泌物を顕微鏡で直接観察し、病原体や炎症細胞の有無を確認します。
【治療の基本原則】
- 早期発見・早期治療: 症状が軽いうちに治療を開始することで、合併症のリスクを最小限に抑え、治療期間も短くなります。
- パートナーとの同時治療: 症状の有無にかかわらず、感染源となった可能性のあるパートナーも同時に検査・治療を行うことで、再感染(ピンポン感染)を防ぎ、完治を確実なものにします。
- 服薬遵守: 医師の指示された期間、正しく薬を服用することが不可欠です。症状が改善しても、自己判断で服用を中止してはいけません。
- 完治の確認: 治療後も、医師の指示に従い、再度検査を受けて完治を確認することが重要です。
2. 細菌性性感染症と治療薬
細菌が原因となる性感染症は、適切な抗生物質で治療が可能です。
【クラミジア感染症】
日本で最も多い性感染症です。原因菌は「クラミジア・トラコマティス」で、感染者の約80%が無症状であるとされています。
主な症状:
- 男性: 尿道のムズムズ感、透明な分泌物、排尿時の違和感など。進行すると副睾丸炎を引き起こし、不妊の原因となることもあります。
- 女性: 無症状のことがほとんどです。しかし、進行すると子宮頸管炎、骨盤内炎症性疾患(PID)となり、下腹部痛や発熱、そして将来の不妊や子宮外妊娠のリスクを高めます。
治療薬(抗生物質):
- マクロライド系抗生物質: アジスロマイシンが代表的です。単回投与(1回飲むだけで良い)で済むため、服薬コンプライアンスが高く、広く用いられています。副作用として、胃腸症状(吐き気、下痢)が出ることがあります。
- テトラサイクリン系抗生物質: ドキシサイクリンが代表的です。1日2回、7日間服用します。服薬期間がアジスロマイシンより長いものの、治療効果は高いとされています。副作用として、光線過敏症や胃腸症状に注意が必要です。
【淋菌感染症(淋病)】
淋菌は非常に感染力が強く、近年では薬剤耐性を持つ菌が増加しています。
主な症状:
- 男性: 尿道からの黄色や白色の膿性分泌物、強い排尿時の痛み、尿道のかゆみ。放置すると精巣上体炎を引き起こします。
- 女性: クラミジアと同様に無症状のことが多く、おりものの増加や不正出血、下腹部痛などがみられることがあります。進行すると骨盤内炎症性疾患となり、不妊の原因となります。
治療薬(抗生物質):
- 淋菌は薬剤耐性を持つ菌が多いため、治療は慎重に行われます。第一選択薬はセフトリアキソンというセファロスポリン系抗生物質の注射薬です。注射で体内に直接投与することで、確実に菌を排除する目的があります。
- 経口薬としては、スペクチノマイシンなども用いられることがありますが、耐性菌のリスクから、注射による治療が推奨されています。
【梅毒】
「梅毒トレポネーマ」という螺旋状の細菌によって引き起こされる病気で、近年再び増加傾向にあります。病期によって症状が異なります。
主な症状:
- 第1期: 感染後3週間ほどで、性器や肛門、口などに硬いしこり(硬性下疳)やリンパ節の腫れが出現します。通常痛みはなく、数週間で自然に消えます。
- 第2期: 感染後数ヶ月で、全身に赤い発疹が広がります。手や足の裏にも現れるのが特徴です。発熱や倦怠感を伴うこともあります。
- 晩期: 治療をせずに放置すると、数年~数十年後に心臓や血管、神経系に重篤な合併症を引き起こします。
治療薬(抗生物質):
- 治療の中心はペニシリン系抗生物質です。
- ベンザチンペニシリンGは、筋肉注射によって有効成分が長期間体内に留まるため、梅毒の治療に広く用いられます。早期の梅毒であれば1回の注射で完治が期待できます。
- 内服薬としては、アモキシシリンが用いられますが、梅毒の病期によって服用期間が異なり、数週間から数ヶ月に及ぶこともあります。
3. ウイルス性性感染症と治療薬
ウイルスが原因となる性感染症は、細菌性と異なり、体内のウイルスを完全に排除することが難しい場合があります。治療は、ウイルスの増殖を抑えたり、症状をコントロールしたりすることが目的となります。

【性器ヘルペス】
単純ヘルペスウイルス(HSV-1またはHSV-2)によって引き起こされます。再発を繰り返すのが特徴です。
- 主な症状: 性器周辺に小さな水疱ができ、やがて潰瘍となり、強い痛みを伴います。発熱やリンパ節の腫れを伴うこともあります。
- 治療薬(抗ウイルス薬):アシクロビル、バラシクロビル、ファムシクロビルなどの抗ウイルス薬が用いられます。これらの薬はウイルスの増殖を抑えることで、症状を緩和し、治癒を早めます。
- 初期治療: 初めて発症した際には、7〜10日間服用します。
- 再発抑制療法: 頻繁に再発を繰り返す場合、再発を予防するために長期間(数ヶ月〜数年)にわたって薬を服用することがあります。
【尖圭コンジローマ】
ヒトパピローマウイルス(HPV)によって引き起こされ、性器や肛門周辺にイボができます。
- 主な症状: 感染後数週間〜数ヶ月で、性器や肛門の周辺に、ニワトリのトサカやカリフラワーのような形をしたイボができます。痛みやかゆみはほとんどありません。
- 治療法:尖圭コンジローマはウイルスそのものを排除する薬はありません。治療の目的は、イボを除去することです。
- 外用薬: イミキモドクリームを週に数回、数週間〜数ヶ月にわたって患部に塗布します。
- 外科的治療: イボが大きい場合や数が多い場合、レーザー焼灼、電気メス、液体窒素による凍結療法でイボを切除・破壊します。
- HPVワクチン: 尖圭コンジローマの原因となるHPV型は、HPVワクチンによって予防可能です。
【HIV感染症】
ヒト免疫不全ウイルス(HIV)は、免疫細胞であるCD4陽性T細胞を破壊し、最終的にエイズ(後天性免疫不全症候群)を引き起こします。
- 主な症状: 感染初期は発熱やリンパ節の腫れなど、風邪のような症状が出ることがありますが、多くは無症状の期間が長く続きます。
- 治療薬(抗レトロウイルス薬):現在、HIVを完全に排除する薬はありませんが、ウイルスの増殖を強力に抑える**抗レトロウイルス薬(ART)**が開発されています。
複数の薬を組み合わせる「多剤併用療法(カクテル療法)」が主流であり、これによりウイルスの増殖を抑え、エイズの発症を予防し、感染者も健康な人と同じように生活できるようになりました。
毎日欠かさず服薬を続けることが非常に重要です。服薬を中断すると、ウイルスが再増殖し、薬剤耐性ウイルスが出現するリスクが高まります。
4. その他の性感染症と治療薬
【カンジダ症】
カンジダ・アルビカンスという真菌(カビの一種)によって引き起こされます。性行為でも感染しますが、体調不良や抗生物質の長期服用など、免疫力が低下した際に発症することもあります。
主な症状:
- 女性: 外陰部のかゆみ、酒粕状のおりもの。
- 男性: 亀頭や陰茎に赤みや白いカス、かゆみ。
治療薬(抗真菌薬):
- 外用薬: クリームや軟膏を患部に塗布します。
- 内服薬: 症状が重い場合や外用薬で効果がない場合に用いられます。
【トリコモナス症】
「膣トリコモナス」という原虫によって引き起こされます。
主な症状:
- 女性: 悪臭のある泡状のおりもの、かゆみ、排尿時の痛み。
- 男性: ほとんどが無症状ですが、軽度の尿道炎症状が出ることがあります。
治療薬(抗菌薬):
- メトロニダゾールなどの抗菌薬が内服薬として用いられます。パートナーとの同時治療が不可欠です。
5. 治療の注意点と予防の重要性
性感染症は、適切な薬で治療すれば完治やコントロールが可能です。しかし、治療を成功させ、再発や感染拡大を防ぐためには、以下の点に注意が必要です。
- 服薬遵守の徹底: 症状がなくなっても、医師の指示通りに最後まで薬を飲み切ることが何よりも重要です。これにより、病原体を完全に排除し、薬剤耐性菌の出現を防ぎます。
- 性行為の自粛: 治療期間中は、感染拡大を防ぐため、性行為を控えましょう。
- パートナーとの同時治療: パートナーも感染している可能性が非常に高いため、必ず二人で同時に検査・治療を受けてください。これを怠ると、治っても再び感染する「ピンポン感染」を繰り返してしまいます。
- 完治の確認: 治療完了後、医師の指示に従い、再度検査を受けて完治を確認しましょう。特にクラミジアや梅毒では、見た目の症状が消えても病原体が残っていることがあるため、再検査は必須です。
【予防の重要性】
性感染症は、治療よりも予防が何倍も重要です。
- コンドームの正しい使用: 性行為の最初から最後までコンドームを正しく使用することで、多くの性感染症の感染リスクを大幅に下げることができます。
- パートナー選び: 新しいパートナーと性行為をする前には、お互いに性感染症の検査を受けることを検討しましょう。
- 定期的な検査: 症状がなくても、性行為の機会が多い方は定期的に検査を受けることをお勧めします。
- ワクチン: HPVワクチンは子宮頸がんだけでなく、尖圭コンジローマの原因となるHPV型も予防します。また、B型肝炎ワクチンも性感染症であるB型肝炎の予防に有効です。
まとめ:正しい知識と行動が、あなたとパートナーの健康を守る
性感染症は、適切な診断と治療によって、ほとんどが治癒またはコントロール可能な病気です。しかし、自己判断による市販薬の使用は危険であり、症状の悪化や薬剤耐性菌の出現を招く可能性があります。
もし性感染症の疑いがある場合は、恥ずかしがらずに、すぐに専門の医療機関を受診してください。医師の指導のもと、原因となる病原体に応じた適切な薬を正しく服用することが、完治への一番の近道です。
この記事が、性感染症に対する正しい知識を身につけ、ご自身の健康を守るための第一歩となることを願っています。そして、大切なパートナーと共に、適切な予防と定期的な検査を心がけましょう。







