この記事の概要
農薬は作物を守る一方で、人や環境に多くの影響を与えています。そんな中、注目を集めるのが「Bt作物」と呼ばれる遺伝子組換え植物。自然界の細菌バチルス・チューリンゲンシス(Bt)の力を借りて、害虫を抑える新たな技術です。この記事では、その仕組みから実際の活用事例まで、やさしく解説します。 本記事は、全4回にわたるシリーズコラム「遺伝子組み換え食品」の第1回です。
化学リスクから持続可能な解決策へ

🔬 遺伝子組換え作物シリーズ(全4章)
農業は、害虫、雑草、病原体から作物を守るために、長年にわたり化学農薬(chemical pesticides)に依存してきました。殺虫剤(insecticides)、殺菌剤(fungicides)、除草剤(herbicides)、殺鼠剤(rodenticides)といった多様な化学物質は、作物の生産性を飛躍的に向上させてきた一方で、人間の健康、野生動物、そして生態系全体に深刻な脅威をもたらしてきました。
こうした課題に直面し、より安全で持続可能な防除法を模索する中で、科学者たちは遺伝子組換え生物(Genetically Modified Organisms: GMOs)に着目するようになります。特に注目されたのが、自然由来の生物的制御因子(biological control agent)として知られるバチルス・チューリンゲンシス(Bacillus thuringiensis, 略称Bt)の利用です。
本章では、このBtを活用したBt作物(Bt crops)がどのようにして誕生し、近代農業におけるより安全かつ持続可能な代替手段として位置づけられるようになったのか、その科学的背景と実社会への影響について探っていきます。
化学農薬の隠れた危険性
現代農業における化学農薬

化学農薬は、農業のみならず都市緑化や公衆衛生対策にも不可欠な存在です。害虫を駆除する殺虫剤(insecticides)、カビなどの病原性真菌を抑える殺菌剤(fungicides)、雑草を制御する除草剤(herbicides)、ネズミなどの有害哺乳類を駆除する殺鼠剤(rodenticides)などが広く使用されています。
しかし、これらの農薬は目に見えないコストを伴います。
人体への影響
農薬への曝露(exposure)は、以下の経路で発生します:
- 皮膚接触(dermal contact)
- 吸入(inhalation)
- 汚染された食品や水の摂取(ingestion)
曝露による健康被害は、軽度の皮膚炎から重度の神経障害(neurological disorders)や発がん性(carcinogenicity)まで幅広く、さらに低濃度でも長期間にわたる曝露は特に危険視されています。
実際に、母乳(breast milk)から農薬成分が検出された事例も存在し、妊婦や乳児などの脆弱(ぜいじゃく)な人々に対する懸念が高まっています。
特定の農薬に対するスポットライト
有機塩素系化合物(Organochlorines:例:DDT)
かつて広く使用されていたが、現在では多くの国で禁止。
生物蓄積(bioaccumulation)により環境中に長く残留し、発達障害や内分泌かく乱(endocrine disruption)を引き起こします。
有機リン系(Organophosphates:例:グリホサート Glyphosate)
当初は安全な代替物質と見なされていたが、現在では神経障害やホルモン撹乱のリスクが指摘されています。
カーバメート系およびトリアジン系(Carbamates and Triazines:例:アトラジン Atrazine)
これらは生殖障害や発達異常、発がん性との関連が報告されています。
ピレスロイド系およびネオニコチノイド系(Pyrethroids and Neonicotinoids)
初期には安全と考えられていましたが、DNA損傷や、ミツバチなどの有益な昆虫に対する生態系への悪影響が明らかになっています。
環境への影響
農薬は標的以外の有益生物にも影響を与えます。ミツバチや天敵昆虫、土壌微生物、水生生物などに被害を及ぼし、水質汚染や土壌汚染の原因ともなります。
また、農薬の過剰使用は害虫の抵抗性(resistance)を助長し、農薬の有効性を低下させ、さらなる農薬使用の悪循環を招いています。
転機:バチルス・チューリンゲンシス(Bt)の発見
偶然の発見
この物語は、1901年の日本で始まります。細菌学者の石渡繁胤(いしわたり しげたね)が蚕の病気を調査する中で、Bacillus sottoと名付けた新しい細菌を発見しました。
1911年にはドイツの科学者エルンスト・ベルリナー(Ernst Berliner)が、チューリンゲン地方の蛾の幼虫から同じ菌を再発見し、Bacillus thuringiensis(バチルス・チューリンゲンシス)と名付けました。
1950年代には、トーマス・アンガス(Thomas Angus)によって、この細菌が持つ選択的な殺虫性が実証されました。
Btの内部:自然界の生物農薬(bio-insecticide)
Cry毒素:Btの秘密兵器
多様性と特異性
Cry毒素(crystal proteins/δ-endotoxins)は、Btが胞子形成時に生成する結晶状のタンパク質であり、現在までに75種類以上が発見されています。それぞれが異なる昆虫群に特異的に作用し、チョウ目(Lepidoptera)、コウチュウ目(Coleoptera)、ハエ・蚊などの双翅目(Diptera)に対して効果があります。
Cry毒素の作用機構:微視的なドラマ
想像してみてください。幼虫がBt毒素を含む植物を食べると、まず昆虫のアルカリ性の腸内で毒素が活性化されます。次に、腸内上皮の特異的受容体に結合し、微細な孔(pore)を形成します。結果として、細胞が破裂し、数日以内に幼虫は死に至ります。
構造と機能
Cryタンパク質は、3つの主要なドメイン(domain)から構成されており、以下の機能を担っています:
- 孔形成(pore formation)
- 受容体結合(receptor binding)
- 構造安定性(structural stability)
Cry以外のBt毒素
BtはCry毒素に加え、以下のような他の殺虫タンパク質も産生します:
- Cytタンパク質(Cyt proteins):主に蚊に対して有効
- Vipタンパク質(Vegetative insecticidal proteins):特定の蛾に効果
- Sipタンパク質(Sip proteins):甲虫類の幼虫に作用
遺伝子組換え:古代の選抜から現代の精密操作へ
伝統的な品種改良の課題
古代の農民は、自然交配の中から望ましい特性を持つ作物を選抜して育ててきました。しかし、これは同時に有害な形質(例:ジャガイモに含まれる高濃度のグリコアルカロイド)も一緒に引き継いでしまうことがありました。
遺伝子組換えの精度と安全性
現代の遺伝子組換え(genetic modification)では、Btの遺伝子を正確に選んで植物に導入することで、不要な形質を排除し、作物自体に殺虫タンパク質を生産させることが可能になります。
Bt作物:害虫管理の革命
Bt作物の開発
Bt作物の作成は、Btの遺伝子の中から目的とするCryタンパク質の遺伝子を選定し、植物胚に導入することで実現します。成長した作物は、その全期間にわたり自ら殺虫タンパク質を生産し続け、外部からの農薬散布を不要にします。
Bt作物の利点
- 長期的な防除:植物自体が害虫を継続的に排除。
- 化学農薬の削減:人間や環境への影響を軽減。
- 経済的効率:農薬費の削減と収量の向上。
- 高い安全性:人間や有益生物には影響なし。
非Bt型GMO作物:さらに広がる応用
Bt作物は、GMO技術の一部に過ぎません。他にも以下のようなGMO作物が存在します:
- 除草剤耐性作物(herbicide-tolerant crops)
- 干ばつ耐性作物(drought-resistant crops)
- 栄養強化作物(nutritionally enhanced crops)— 例:ゴールデンライス(Golden Rice)は、ビタミンA欠乏症に対処するためにβ-カロテンが強化された品種です。
実世界での成功事例
Bt作物は、世界中でトウモロコシや綿花の防除に使用され、農薬の使用量を大幅に削減することに成功しています。
また、公衆衛生の分野でも、Bt毒素は病原性を持つ蚊の駆除に用いられ、数えきれないほどの人命が救われてきました。
結論:より健やかで持続可能な未来へ
バチルス・チューリンゲンシスの物語は、古くからの農業の課題に対して、バイオテクノロジーがいかに革新的な解決策をもたらすかを示す好例です。
GMO技術、とりわけBt作物は、化学農薬への依存を減らし、人間の健康と生態系を保護する持続可能な農業の実現に大きく貢献しています。
ただし、継続的な研究、責任ある技術導入、そして透明性のある情報発信が不可欠です。人類と地球の未来にとって、GMO技術が真に持続可能な恩恵となるためには、科学と社会の連携が必要なのです。
引用文献
- Nicolopoulou-Stamati, Polyxeni, et al. ‘Chemical Pesticides and Human Health: The Urgent Need for a New Concept in Agriculture’. Frontiers in Public Health, vol. 4, July 2016. DOI.org (Crossref), https://doi.org/10.3389/fpubh.2016.00148.
- Rao, Priyashi, et al. ‘Cry Toxins of Bacillus Thuringiensis: A Glimpse into the Pandora’s Box for the Strategic Control of Vector Borne Diseases’. Environmental Sustainability, vol. 4, no. 1, Mar. 2021, pp. 23–37. DOI.org (Crossref), https://doi.org/10.1007/s42398-020-00151-9.
- Sanchis, V., Bourguet, D. Bacillus thuringiensis: applications in agriculture and insect resistance management. A review. Agron. Sustain. Dev. 28, 11–20 (2008). https://doi.org/10.1051/agro:2007054
- Bt-Corn. https://biosecurity.fas.org/education/dualuse-agriculture/2.-agricultural-biotechnology/bt-corn.html#:~:text=To%20create%20a%20Bt%20crop,insecticidal%20protein%20in%20its%20leaves. Accessed 21 May 2025.


