この記事の概要
自然由来の「バイオ農薬」は安全だと信じていませんか? 実は、環境にも人にも思わぬ影響を及ぼす可能性があるのです。遺伝子組換え作物に組み込まれた殺虫タンパク質、ミツバチや野生生物へのサブリーサル効果、食品から検出されるBt菌……。 本記事では、バイオ農薬の仕組みとリスクを科学的にひも解き、「自然=無害」という思い込みに警鐘を鳴らします。 本記事は、全4回にわたるシリーズコラム「遺伝子組み換え食品」の第2回です。
緑の約束の裏に潜むトゲ
🔬 遺伝子組換え作物シリーズ(全4章)

「バイオ農薬(Biopesticide)」という言葉が農業や園芸の分野で注目を集め始めたとき、それはまるで環境再生の切り札のように歓迎されました。「バイオ(bio)」という語が持つ「生命的」「自然的」といった響きは、暗黙のうちに「安全で、害がない」というイメージを人々に与えました。
特に、有機農業(Organic Agriculture)を志向する農家や、家庭菜園を営む園芸愛好家、そしてエコロジー意識の高い消費者にとって、バイオ農薬は理想的な選択肢のように思えました。「毒を使わずに虫を駆除できる」「作物に負担をかけずに収穫できる」「合成化学薬品ではなく、自然由来のものだから安心だ」——こうした期待が広まり、バイオ農薬は瞬く間に普及していきました。
特に象徴的だったのが、《バチルス・チューリンゲンシス》(Bacillus thuringiensis、以下Bt)という土壌由来の細菌(Bacterium)です。この細菌は、特定の昆虫に対して致死性を持つタンパク質を生成する性質があり、その性質を利用した殺虫剤や、Btの遺伝子を導入した遺伝子組換え作物などが次々と開発されました。
当初、このBtは「持続可能な農業(Sustainable Agriculture)」の希望の星とされ、化学農薬に代わる“クリーン”な代替手段として脚光を浴びました。しかし、物語はそこでは終わりません。希望に満ちた第一幕の背後で、やがてより複雑で、注意深く観察すべき第二幕が始まっていたのです。
Bt革命とその余波 — 繁栄の陰に残された問い
選択的に作用する細菌 ― Cry毒素のメカニズム

Btの特筆すべき点は、その毒素が極めて「選択的(Selective)」であることです。Btは《Cry毒素(Cry toxins)》と呼ばれる結晶性タンパク質を生成します。このCry毒素は、ガ(蛾)や蚊、コガネムシなど、特定の昆虫の腸に取り込まれると、腸の細胞膜に穴を開け、感染症を引き起こして死に至らしめるという特異な作用機構を持っています。
この「狙い撃ち」の性質は、従来の化学農薬がミツバチや鳥類、さらには人間の健康にも影響を及ぼし得る非選択的性質を持つのに対して、「環境にやさしい農薬」として強調されてきました。Btは「殺すべき虫だけを殺す」という理想的な農薬として、広く用いられるようになったのです。
遺伝子組換え作物(Bt作物)の登場と連続曝露という問題
1990年代になると、科学技術はさらに一歩進みました。Btの持つCry毒素の遺伝子を、植物のDNAに直接組み込む技術が確立されたのです。こうして生まれたのが《Bt作物(Bt crops)》です。これは、Btそのものの細菌を植物に付着させるのではなく、植物自身がCry毒素を生成するように遺伝子を改変したものです。
これにより、トウモロコシ、綿花、ナスなどのBt作物は、全身が「殺虫タンパク質を内包した植物」へと変貌を遂げました。この技術的ブレークスルーは、農薬散布の手間を大きく軽減し、収量の安定化にも寄与したとされます。
しかし、この劇的な技術進歩が新たな疑問を呼び起こします。
「もし昆虫がBt毒素に一度きりでなく、日常的かつ継続的に曝露され続けたら? さらに、それは昆虫以外の生物にも影響しないのか?」という、環境全体を見据えた視点が、改めて必要になったのです。
見落とされがちな影響 — 標的外生物(Non-target Species)に忍び寄る影
昆虫の「腸」は生態の砦
昆虫の腸は、単なる消化器官ではありません。それは「生物としての健全性を守る最前線」であり、外部からの病原体や異物を阻止するバリア機能を果たしています。この腸の構造がCry毒素によって破壊されると、単に消化不良を起こすだけでなく、代謝異常や成長阻害、免疫低下など、様々な波及的影響を生じます。
実際、実験動物として頻繁に使われる果実バエ(Drosophila melanogaster)を用いた研究では、Btへの曝露により、腸内の幹細胞が異常増殖し、組織の構造が乱れる現象が報告されています。これにより、食欲減退や発育遅延、防御応答の異常などが引き起こされることが明らかになりました。
ミツバチ、寄生蜂、そしてポリネーターたちへの影響
こうした腸内の異常は、果実バエに限らず、農業生態系の要とも言えるポリネーター(花粉媒介者)においても観察されています。
たとえば、マルハナバチやセイヨウミツバチ(Apis mellifera)は、Btに対して直接的な死亡リスクを持たないとされてきましたが、実際には以下のような「サブリーサル効果(Sublethal Effects)」が多数報告されています:
- 採餌能力の低下
- 行動の異常(方向感覚喪失、学習能力低下など)
- 発育遅延
- 繁殖率の低下
- 免疫応答の減退
さらに、農業害虫の天敵として重要な寄生蜂(たとえばTrichogramma属)にも、Btへの曝露による成虫数の減少や行動異常が確認されています。
こうした効果は、実験室内では見落とされがちです。しかし、実際の農場では複数世代にわたって累積的に影響を及ぼすため、地域全体の生物多様性や生態系機能に深刻なダメージを与える可能性があります。
人間への影響は? ― Btは虫だけの問題ではない
食卓への影響 — Btの残留と食中毒の懸念
Bt菌は胞子(Spore)状態になると極めて強靭であり、作物に散布された後も長期間にわたり土壌や作物表面に残留します。さらに、加工された食品の中からもBt菌が検出された事例があります。つまり、私たちが日常的に食べる野菜や冷凍食品の中に、Btが微量ながら含まれている可能性があるのです。
Btは一般に無害とされますが、同じ属に属するBacillus cereusは、よく知られた食中毒の原因菌です。一定の条件下では、Bt菌も腸内で発芽・増殖し、毒素を産生して下痢や炎症などの症状を引き起こすことがあります。
実際、ヨーロッパでは、市販のBt製剤が原因とされる食中毒の集団発生例が複数報告されています。
加えて、胞子ではなく「栄養型細胞(Vegetative Cells)」と呼ばれる形態のBt菌が、哺乳類や昆虫に対して免疫反応を引き起こす可能性があることも示唆されています。この形態は未だ研究途上であり、従来の安全性評価では捉えきれないリスクが潜んでいると考えられています。
ポリネーターの危機 ― 沈黙の闘い
生態系を支える存在が危機に瀕している
世界中の食料生産の約75%は、ミツバチ、チョウ、ハナアブなどの花粉媒介生物(Pollinators)によって支えられています。これらの生物は、ただ花に集まるだけでなく、作物の受粉、生態系の維持、さらには自然の景観そのものに関与する極めて重要な存在です。
しかし、近年これらの生物は世界的に減少しており、原因の一端には農薬の使用があります。
バイオ農薬も例外ではありません。たとえば、スピノサド(Spinosad)という土壌細菌由来の農薬は、ミツバチにDNA損傷を引き起こし、正常な採餌行動ができなくなることがわかっています。ニームオイル(Neem Oil)という植物由来の農薬は、巣の健康を損ない、幼虫の死亡率を上昇させます。
さらに、一般的な研究では見過ごされがちな「単独性の野生ミツバチ(Solitary Bees)」は、特に感受性が高く、ごく少量のバイオ農薬でも致命的な影響を受けることがあります。
認識と現実のギャップ —「自然由来神話」の危険性
バイオ農薬は「自然由来であるがゆえに無害」と思われがちですが、この認識は必ずしも科学的根拠に裏打ちされたものではありません。多くの国の農薬規制は、合成化学農薬を前提に設計されており、微生物や遺伝子改変タンパク質といったバイオ農薬特有の性質には対応しきれていないのが現状です。
その結果、多くのリスク評価はごく限られた実験条件下で数種類のモデル生物だけを用いて行われ、生態系全体の中での影響を捉えることができていません。
バイオ農薬が「適量」で使用されたとしても、土壌中での蓄積、非標的生物との複雑な相互作用、長期的な曝露といった現実のフィールドにおける要因を無視することはできません。
より良い未来のために ― 科学、責任、そして賢い選択
バイオ農薬の使用を全面的に否定するのではなく、慎重かつ科学的に適切に使っていくためには、以下のような具体的な対応が求められます:
- ミツバチ以外の評価も行う:マルハナバチやハナアブ、単独性ミツバチといった多様なポリネーターを評価対象に含め、生態系全体の影響を把握する。
- 規制制度の再設計:バイオ農薬固有の生物学的性質や環境中での挙動を踏まえた新たなガイドラインを策定する。
- 散布タイミングの最適化:花粉媒介者の活動が最も活発な時間帯を避け、必要なときだけ局所的に使用する。
- 農家と消費者への教育:Bt処理作物を食べる前にはよく洗浄すること、また過剰な使用にはリスクがあることを広く啓発する。
結論:自然由来は「無害」とは限らない
自然は癒しと恵みの源であると同時に、強力な生物的兵器の源でもあります。バイオ農薬はこの中間に位置し、「自然だから安心」という人々の認識を巧みに利用して広がってきました。
しかし、Btの物語が示すように、善意と技術革新だけでは生態系の複雑さに対処しきれない場面もあります。私たちは、「これは自然由来かどうか」だけでなく、「これは本当に必要なのか?」「この使い方は適切か?」「このリスクは受け入れ可能か?」という問いを常に自らに投げかけなければなりません。
作物の収穫は、見えない多様な生命の働きの上に成り立っています。私たちが選ぶ農薬が、その見えない命を脅かしていないか――その問いを忘れてはならないのです。
引用文献
- Rousset, Raphaël, and Armel Gallet. ‘Unintended Effects of Bacillus Thuringiensis Spores and Cry Toxins Used as Microbial Insecticides on Non-Target Organisms’. Current Opinion in Environmental Science & Health, vol. 43, Feb. 2025, p. 100598. DOI.org (Crossref), https://doi.org/10.1016/j.coesh.2025.100598.
- Chavana, Joshua, and Neelendra K. Joshi. ‘Toxicity and Risk of Biopesticides to Insect Pollinators in Urban and Agricultural Landscapes’. Agrochemicals, vol. 3, no. 1, Feb. 2024, pp. 70–93. DOI.org (Crossref), https://doi.org/10.3390/agrochemicals3010007.


