「におい」で恋が決まる?MHC遺伝子と配偶者選びの不思議な関係

Posted on 2025年 4月 18日 キス

この記事の概要

「この人、なぜかいいにおいがする」――そんな感覚に心当たりはありませんか?実はその好み、免疫システムをつかさどるMHC(主要組織適合遺伝子複合体)が関係しているかもしれません。においと遺伝子、配偶者選びに潜む驚きのメカニズムを、動物行動学や神経科学、人間の実験研究をもとにやさしく解説します。恋愛と遺伝子の思わぬつながりを、科学の視点でのぞいてみませんか?

MHCとは何か、そしてなぜ配偶者選択に重要なのか?

主要組織適合遺伝子複合体(MHC: major histocompatibility complex)は、免疫システムにおいて中心的な役割を果たす遺伝子群です。ヒトではヒト白血球型抗原(HLA: human leukocyte antigen)と呼ばれ、異物を認識して免疫反応を開始するT細胞の働きを支えています。MHCが提示するのは、病原体由来の抗原ペプチド(antigenic peptide)であり、これによって私たちの体は「自己」と「非自己」を区別できるのです。

簡単にいうとMHCはラベルのようなもの

しかし、MHCの役割はそれだけにとどまりません。動物行動学や神経科学の研究から、MHCが嗅覚を通じた配偶者選択にも関与していることが明らかになってきました。つまり、自分と異なるMHCを持つ相手の体臭を「好ましい」と感じやすくなるのです。本記事では、この現象の背後にある仕組みと、その進化的・文化的な意味を探ります。

MHC型に基づく配偶者選択の発見

この研究分野の出発点は1975年のマウス実験です。Yamazakiらの研究によって、マウスは自分とは異なるMHC型(H-2型)を持つ相手を好む傾向があることが判明しました。この発見は「MHC非相補的交配選好(MHC-disassortative mating)」という概念につながり、その後の多数の動物研究へと発展しました。

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このような配偶者選好は、マウスやラット、霊長類、トゲウオ、イエスズメ、砂トカゲなど、さまざまな動物で確認されています。そして共通していたのは、「嗅覚が情報伝達の手段である」という点です。たとえば、マウスは尿のにおいだけで相手を識別できます。

否定された仮説:腸内細菌と代謝物キャリア

かつては、MHCと配偶者選好の関係を説明するために以下のような仮説が提案されていました。

腸内細菌説(Microbiota Hypothesis)

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この仮説では、MHCが腸内細菌(マイクロバイオータ)の組成に影響し、そこから生まれる揮発性有機化合物(VOCs)が体臭を決定すると考えられていました。たとえば、トゲウオではMHC多様性と腸内細菌の多様性に相関が見られ、鳥類ではMHCと尾脂腺分泌物(preen oil)の成分が一致する例も報告されました。

しかしその後、無菌状態で育てられたマウスでもMHCによるにおい識別が可能であることが示され、この仮説は否定されました。また、無菌ラットでは識別できなかったという研究もあり、行動実験の設計に差があることも指摘されています。

代謝物キャリア説(Carrier Hypothesis)

もうひとつの説では、MHC分子が揮発性代謝物を運ぶ「キャリア」の役割を果たすとされました。しかし、MHC分子はペプチド(peptide)に特化しており、揮発性物質には適していないこと、また尿中の代謝物がMHC型ごとに一貫していないことから、この仮説も支持されていません。

現在の主流:MHCペプチド仮説

最も有力な理論は、MHCが提示するペプチドが嗅覚情報として利用されるという「MHCペプチド仮説(MHC Peptide Hypothesis)」です。つまり、体内のMHCによって選ばれたペプチドが尿や汗に含まれ、それが嗅覚によって識別されるという仕組みです。

ちゅ

この仮説を支持する証拠は、以下のような研究から得られています。

  • トゲウオ(Reuschら, 2001)では、雌が自分との組み合わせでMHC多様性が「中程度」になる雄を選好。合成ペプチドを水槽に加えると、雄の魅力が変化した。
  • マウス(Leinders-Zufallら, 2004)では、鋤鼻器(vomeronasal organ)がMHCペプチドに特異的に反応し、ペプチドのアンカーレジデュー(anchor residue)を1つ変えるだけで反応が消失。
  • ヒト(Wedekindら, 1995)では、女性がMHC型の異なる男性のTシャツのにおいを好む傾向が観察された。また、fMRIによる脳画像研究では、自己由来のMHCペプチドが右紡錘状回や内側眼窩前頭皮質を活性化させることが示されました。

MHCの多様性は「ほどほど」が理想?

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進化の観点からは、「多ければ良い」というわけではなく、中程度のMHC多様性が最も適していると考えられています。MHCが少なすぎると病気への抵抗力が落ち、多すぎると自己免疫疾患やT細胞の選別に問題が生じます。

トゲウオの研究では、6〜8種類のMHCアレルを持つ個体が最も健康で、雌の選好もその範囲に集中していました。これは、配偶者選択が「進化的に最適なMHC多様性」を目指す行動であることを示しています。

配偶後にも働くMHC適合性

たまご

興味深いのは、交配の後にもMHCによる選別が行われるということです。トゲウオの研究では、卵が自分とMHC的に相補的な精子を選ぶ現象が確認されています。これは「配偶後選択(postcopulatory selection)」の一例で、哺乳類にも似たような仕組みが存在する可能性があります。

HLA型と婚姻パターン

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人間でも、HLA型に基づく非ランダムな婚姻パターンが観察されています。たとえば、Oberら(1997)はアメリカのフッター派という宗教的共同体で、HLA型が異なる相手との結婚が多いことを報告しました。

また、有名なTシャツ実験では、ピルを使用していない女性はHLAが異なる男性のにおいを好む一方、ピル使用中の女性はHLAが似ている男性のにおいを好む傾向がありました。これは擬似妊娠状態による心理的変化がにおいの好みに影響することを示唆しています。

嗅覚と性的満足度の関係

お花

Croyら(2013)の研究では、嗅覚が鋭い人ほど性的満足度が高いという結果が出ています。特に女性では、オーガズムの頻度と強く関連していました。一方、性欲や性交の頻度とは相関が見られませんでした。

また、Herz & Inzlich(2002)の研究では、「においに敏感な人ほど恋愛対象者の体臭を重視する」ことも明らかになっています。

女性の方が本当に嗅覚に優れているのか?

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一般的に「女性は嗅覚が鋭い」と言われますが、研究結果はまちまちです。Sorokowskiら(2019)の研究では、女性がすべての嗅覚テストで男性を上回りました。一方で、Guarnerosら(2013)などは性差が見られなかったと報告しています。

Novákováら(2014)の分析では、「社会的な期待や性別ステレオタイプが嗅覚の自己認識に影響している可能性」が指摘されており、性差の有無は一概には言えません。

文化的要因と学習による影響

嗅覚は訓練によって向上する感覚です。香水調香師やワインテイスターのように、専門的な訓練を受けた人々は性別に関係なく嗅覚能力が高まります。Dotyらの研究でも、子どもに対して嗅覚トレーニングを行うと感度が上がることが示されています。つまり、嗅覚は後天的に鍛えられる可塑的な能力だということです。

トレーニング

一緒に考察しましょう:MHC研究の限界と今後の展望

本記事では、MHCが配偶者選択に与える影響について、生物学的メカニズムや動物・ヒトの研究をもとに紹介してきました。しかし、こうした知見を過度に一般化せず、研究の限界や多様な要因の存在を踏まえることも重要です。以下に、本分野をより客観的に捉えるための補足的な視点を述べます。

考える

相関関係と因果関係の混同に注意

多くの研究は、MHC型と体臭の好みに関して有意な相関関係を報告していますが、それが必ずしも因果関係を意味するわけではありません。たとえば、有名なTシャツ実験(Wedekindら, 1995)は興味深い結果を示しましたが、その後の追試研究では一貫した結果が得られておらず、文化や個人差、実験デザインの影響を考慮する必要があります。

矛盾する研究結果と再現性の課題

確認

MHCペプチド仮説は有力ではあるものの、それを支持しない研究結果も少なくありません。特にヒトを対象とした研究では、明確な傾向が示されないケースや、実験条件によって結果が大きく異なる場合も報告されています。科学的理解を深めるためには、こうした多様な研究結果も含めてバランスよく検討する姿勢が求められます。

動物モデルからヒトへの外挿には慎重さが必要

ふわふわ

本記事ではマウスやトゲウオなどの動物研究を多く取り上げましたが、人間の配偶者選択は生物学的要因だけでなく、文化的・社会的・心理的な要因によって大きく影響を受けます。動物モデルの知見はあくまで参考として位置づけるべきであり、そのまま人間行動に当てはめることは避けるべきです。

さらに、人間の体臭や嗅覚的印象には、石鹸や香水の使用、衣類の素材、気温や湿度の変化、食生活など、数多くの交絡因子(confounding factors)が関与しています。たとえば、ある人物がどのような石鹸を使っているかや、どの季節・気候条件で体臭が測定されたかによって、嗅覚的評価は大きく変化する可能性があります。このような要因をすべて統制することは非常に難しく、特にヒトにおける体臭研究の信頼性や再現性を確保する上で大きな課題となっています。

生物学的決定論を避ける視点

雲のように、変わり、変わり、生きていく

MHCによる嗅覚的な好みは確かに興味深い現象ですが、それが「誰と恋愛し、誰と結ばれるか」を一義的に決定するわけではありません。遺伝的適合性は多数の要因の一つに過ぎず、人間の意思決定には学習、価値観、経験などが密接に関わっています。本記事で紹介したメカニズムも、そのような複雑な意思決定プロセスの一構成要素として理解することが重要です。

今後の展望

お花

今後の研究では、より大規模かつ文化的に多様な被験者を対象に、MHCの影響を他の要因と比較しながら検討する必要があります。また、実験手法の標準化や、社会心理的な変数との統合的分析によって、より信頼性の高い知見が得られると期待されます。

HLA-A

MHCについてもっと詳しく知りたい方へ

はじめに:MHCと免疫における役割

MHC

免疫系は、生物が多種多様かつ絶えず変化する病原体(ウイルス、細菌、真菌、寄生虫など)から自らを守るために進化してきた、非常に複雑で適応性の高い生物学的ネットワークです。この防御機構の中核をなすのが、脊椎動物に共通する主要組織適合遺伝子複合体(Major Histocompatibility Complex, MHC)です。MHCはヒトでは第6染色体の短腕(GRCh38: chr6 28,510,020– 33,480,577)上に位置しており、ヒト白血球抗原(Human Leukocyte Antigen, HLA)と呼ばれるタンパク質をコードする遺伝子群を含んでいます。これらのHLA分子は、免疫系が自己と非自己を区別するためのシグナル伝達に不可欠です。

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HLA分子は、宿主自身または病原体由来のタンパク質断片(ペプチド)を細胞表面に提示することで、Tリンパ球(T細胞)による監視機構を担います。このペプチド提示は、感染細胞や異常細胞の検出および排除、あるいは免疫寛容(自己に対する反応の抑制)を引き起こします。さらに、T細胞が活性化されることで免疫記憶(immunological memory)が形成され、再感染時には迅速かつ効果的な免疫応答が可能となります。

T-cell

T細胞

MHCは適応免疫の要であるだけでなく、極めて高い多型性(polymorphism)、急速な進化速度、および長期にわたる進化的維持(long-term evolutionary persistence)という特徴を併せ持つ、進化的にもユニークな遺伝子領域です。

MHC遺伝子領域の構造と機能

BCellWithIgM

IgM抗体を持つB細胞

ヒトのMHCは約500万塩基対に及び、機能に基づいて3つの領域に分類されます:クラスI領域(Class I)、クラスII領域(Class II)、クラスIII領域(Class III)です。それぞれが免疫応答の異なる側面に関与する遺伝子を含みます。

  • クラスI領域には、HLA-A、HLA-B、HLA-Cなどの古典的遺伝子が含まれます。これらの遺伝子産物であるMHCクラスI分子は、ほぼすべての有核細胞で発現し、主にウイルスや細胞内細菌などの内因性ペプチドをCD8陽性細胞障害性T細胞(cytotoxic T cells)に提示します。提示された抗原が異常と判断されると、感染細胞が標的として排除されます。
  • クラスII領域は、HLA-DR、HLA-DQ、HLA-DPなどの遺伝子を含み、主に樹状細胞(dendritic cells)、マクロファージ(macrophages)、B細胞(B cells)などの抗原提示細胞(Antigen-Presenting Cells, APCs)で発現します。MHCクラスII分子は、主に細菌や寄生虫などの外因性ペプチドをCD4陽性ヘルパーT細胞(helper T cells)に提示し、抗体産生やマクロファージ活性化など多面的な免疫応答を誘導します。
  • クラスIII領域はMHC分子そのものをコードしていないものの、補体系(complement system)など自然免疫に関与する重要な分子(例:C2、C4、factor B)をコードしており、病原体の溶解や食作用の促進に寄与します。

MHCの多型性と個体レベルの多様性

B cell receptor

B細胞受容体

MHC遺伝子(特にクラスIおよびクラスII)は、ヒトゲノム中でも特に高い多型性を示します。例えば、HLA-B遺伝子では、これまでに7,000種類以上のアレル(対立遺伝子)が報告されており、その多くがペプチド結合領域(Peptide-Binding Domains, PBDs)、特にペプチド結合部位(Peptide-Binding Sites, PBSs)に集中しています。この構造的多様性が、異なる病原体抗原の認識能力に直結し、感染症への感受性の違いを生み出します。

MHCクラス1

MHCクラス1

一方で、MHCの全体的な多型性に比して、個体レベルで発現されるMHC分子の数は限られています。ヒトでは、HLA-A、HLA-B、HLA-Cの3つのクラスI遺伝子と、HLA-DR、HLA-DQ、HLA-DPの3つのクラスII遺伝子対を持ち、それぞれ父母から遺伝されます。MHC遺伝子は共優性(codominant expression)で発現するため、両親由来のアレルが等しく発現され、完全なヘテロ接合体では最大6種のクラスI分子と12種のクラスII分子を発現可能です。

MHCクラス2

MHCクラス2

このような多様性は、免疫監視(immune surveillance)の範囲を拡大し、より多様な病原体由来ペプチドの認識を可能にします。逆に、複数の座位でホモ接合となる個体では、ペプチド提示の幅が狭まり、病原体に対する防御が限定される可能性があります。

MHC多型性を維持する進化メカニズム

MHCの極めて高い多型性は、いくつかの進化的選択圧により維持されていると考えられており、以下の3つの主要な理論が提唱されています:

ヘテロ接合性対立遺伝子

ヘテロ接合性対立遺伝子

ヘテロ接合体優位説(Heterozygote Advantage, HA)

この仮説は、異なるアレルを持つヘテロ接合体が、より多様な抗原を提示できるため、多くの病原体に対する抵抗性が高くなるというものです。実証的には、ヘテロ接合体の方が病原体の負荷が少ない、または繁殖成功率が高いという研究報告があります。ただし、数理モデルによると、HAだけではMHC多型性の極端な維持を説明しきれないとされ、最終的には限られた数の高性能アレルに収束する可能性があります。

負の頻度依存選択(Negative Frequency-Dependent Selection, NFDS)

これは

NFDSは、稀なMHCアレルを持つ個体が有利になるという理論です。病原体は一般的なアレルに対して免疫回避機構を進化させやすいため、稀なアレルに対しては対抗手段が未発達であるとされます。魚類や齧歯類での実験的研究では、新規または稀なアレルを持つ個体がより高い抵抗性を示すことが確認されていますが、この仮説の周期的動態を完全に実証するにはさらなる長期的研究が必要です。

変動選択(Fluctuating Selection, FS)

人種沢山あります

FSは、地理的(空間的)および時間的な病原体環境の変化により、選択圧が変動することでMHC多型性が維持されるとする理論です。異なる地域や時期に異なる病原体が優勢になることで、特定のアレルが局所的に適応し、それぞれが維持される仕組みです。空間的FSは、多くの研究で地域ごとの病原体群とMHC型の適応的対応が観察されており強く支持されています。一方、時間的FSは直接的観察が困難であるものの、古代DNA(ancient DNA)解析技術の進展により、過去のアレル頻度変化を解析する手段として期待されています。

MHC多型性のパラドックスとその解明

バランス

MHCに関する重要な進化的パラドックスの一つは、「集団レベルでは極めて多様なMHCアレルが存在する一方で、なぜ個体レベルでは発現されるMHC分子の数が限られているのか」という点です。理論的には、より多くのMHC分子を持つ方が多様な病原体に対応できるため有利なはずですが、現実の個体では中程度の多様性(intermediate diversity)しか保持されていません。

最新の研究では、これは進化的トレードオフ(evolutionary trade-off)によって説明できると考えられています。MHCの多様性が高すぎると、自己抗原の過剰提示やT細胞レパートリーの枯渇といった免疫学的制約が生じる可能性があり、その結果、中間的なMHC多様性が最も適応的であるという進化的妥協点に達するのです。

MHC多様性を制限する進化的トレードオフ

なるほど

MHCの多様性が高まることによって得られる免疫上の利点は、いくつかの生理学的・進化的制約と引き換えになっています。

  • 自己免疫リスク(Autoimmunity Risk): MHCの多様性が増加すると、提示される自己ペプチドの範囲が広がり、自己反応性T細胞が胸腺での負の選択(negative selection)をすり抜ける可能性が高まります。これにより、1型糖尿病や関節リウマチなどの自己免疫疾患のリスクが増大します。
  • T細胞レパートリーの制限: 「T細胞枯渇仮説(T-cell depletion hypothesis)」によると、MHC分子の種類が増えることで、負の選択で排除されるT細胞受容体(T-cell Receptors, TCRs)が増加し、結果として使用可能なTCRの多様性が制限されるとされます。これにより、まれな病原体や新規病原体に対する免疫応答が弱まる可能性があります。
  • 汎用型アレル(Generalists)と特異型アレル(Specialists)のバランス: 一部のMHCアレルは多様なペプチドを提示できる「汎用型」であり、他は特定の病原体に特化した「特異型」として機能します。汎用型は多様性に富む環境で有利ですが、病原体側が免疫回避戦略を進化させやすくなるというリスクがあるため、抗原提示の広さと特異性の間に進化的トレードオフが存在します。

免疫学的制約:T細胞選択とTCR多様性

免疫細胞

MHC分子とT細胞受容体(TCR)は、約5億4,000万年前から共進化してきた分子ペアであり、免疫系における中心的な認識機構を構成します。T細胞は胸腺(thymus)において厳格な選択過程を受けます。

  • 正の選択(Positive Selection): 自己MHC分子に対して中程度の親和性を持つT細胞のみが生存し、免疫機能を果たせるようになります。
  • 負の選択(Negative Selection): 自己ペプチドに対して強く反応するT細胞は排除され、自己免疫の発症を防ぎます。

この二重選択により、発生途中のT細胞の約95%が淘汰され、TCRの理論上の多様性(10¹⁵通り)は、実際には10⁷~10⁸通りにまで制限されます。

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従来は、個体が多様なMHCアレルを持つことでT細胞の過剰排除が起こり、免疫防御が損なわれる可能性があると考えられていました。しかし、ヨーロッパアカネズミ(bank vole, Myodes glareolus)を用いた近年の研究では、クラスI MHCの多様性が中程度である場合に、CD8⁺細胞障害性T細胞数が最適化されることが示されています。また、クラスII MHCでは、アレル多様性の増加がCD4⁺ヘルパーT細胞のレパートリー拡大に寄与する傾向が見られる一方で、自己免疫のリスクも増すことが示唆されています。

遺伝的複雑性と疾患との関連

EpsteinBarrVirus

エプスタイン・バーウイルス

MHC領域は、極めて高い多型性と強い連鎖不平衡(Linkage Disequilibrium, LD)を有しており、これがゲノムワイド関連解析(Genome-Wide Association Studies, GWAS)における解析の難しさを引き起こしています。この領域の遺伝的特徴は、感染症、自己免疫疾患、炎症性疾患の感受性に大きな影響を与えます。

  • 感染症との関連: 例えば、HLA-B57、HLA-B27、HLA-B81などはHIVの進行を遅らせる効果を持つ一方、HLA-B35、HLA-B18、HLA-B58:02などはHIVへの感受性を高めることが知られています。
  • ウイルス免疫: 稀なアレルであるHLA-A11は、エプスタイン・バールウイルス(Epstein–Barr Virus, EBV)への抵抗性を示し、NFDSの一例とされています。
  • 自己免疫疾患: 多発性硬化症、全身性エリテマトーデス(SLE)、1型糖尿病などの発症には、特定のHLA遺伝子型との強い関連が確認されています。

ゲノム文脈がMHC進化に与える影響

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MHC遺伝子の進化は、それ自体の選択圧だけでなく、周囲のゲノム構造(genomic architecture)や隣接遺伝子との相互作用にも大きく影響を受けます。

  • 有害変異の巻き添え維持(Hitchhiking of Deleterious Mutations): MHC遺伝子座に強い平衡選択(balancing selection)がかかることで、近傍の有害な突然変異が組換えによって除去されず、結果的にハプロタイプ全体の適応度が低下する可能性があります。
  • 遺伝子間の共進化(Gene Co-evolution): MHC分子が効果的に機能するためには、抗原処理に関与するTAP(Transporter Associated with Antigen Processing)やタパシン(tapasin)といった分子との適切な連携が不可欠です。これらの遺伝子との機能的共進化は、特定の適応的ハプロタイプ(co-adapted haplotypes)の維持に寄与する一方で、遺伝的多様性の拡大を制限する可能性もあります。

種間多型(Trans-species Polymorphism, TSP)と長期進化的維持

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種間多型(TSP)とは、異なる種間において共通祖先由来のMHCアレルが保存されている現象を指します。これはMHCアレルの進化的安定性と選択的維持の強さを示す重要な証拠です。

伝統的には、HAやNFDSといった平衡選択モデルで説明されてきましたが、近年では以下のような追加要因がTSPに寄与している可能性が示唆されています:

  • 適応的遺伝子導入(Adaptive Introgression): 異種間交雑(hybridization)を通じて有利なMHCアレルが他種に移入し、その後も保持されることで、多様性と適応力の強化が図られる現象です。
  • 地理的分断と局所共進化(Geographic Subdivision and Local Co-evolution): 病原体の種類や圧力が地域ごとに異なるため、各地域で異なるアレルが選択的に維持され、結果として種を越えて多型が長期間保存される仕組みが提唱されています。

性選択とMHC多型性

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MHC遺伝子は、免疫応答のみならず配偶者選好(mate choice)にも影響を与えると考えられています。これは、進化生物学における性選択(sexual selection)の一形態です。

例えば、スティックルバック(sticklebacks)やマウス(mice)などの非ヒト動物では、異なるMHCアレルを持つ配偶者を選好する傾向があり、それにより病原体抵抗性に優れた子孫を残すという戦略が観察されています。

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ヒトにおける研究では結果がまちまちであり、一部ではMHC非類似の配偶者を好む傾向が示されていますが、近年のメタアナリシス(meta-analyses)では、より多様なMHCアレルを持つ、あるいは相補的なアレル構成を持つ配偶者への選好の方が一貫して観察されると報告されています。これは、性選択が病原体媒介選択(pathogen-mediated selection)を補強(reinforce)する役割を果たしている可能性を示唆します。

結論:MHC多様性の最適なバランス

家族

進化免疫遺伝学(evolutionary immunogenetics)の近年の進展は、MHC多型性を形成する複雑な選択圧の理解を大きく前進させました。従来から重視されてきたヘテロ接合体優位(HA)や負の頻度依存選択(NFDS)といった理論は依然として有効ですが、それに加えて:

  • 空間的・時間的な病原体の変動(FS)
  • ゲノム構造と連鎖(LD)
  • 共進化する抗原処理遺伝子
  • 種間の遺伝子流動(introgression)

といった、より複雑で多層的な要因がMHCの進化に関与していることが明らかになってきました。

そして、多数の研究により、個体レベルでの中程度のMHC多様性こそが、免疫の有効性(pathogen defense)と自己免疫や生理的コストの最小化とのバランスが最も取れていることが示されています。

実験管

今後は、ロングリードシークエンシング(long-read sequencing)、機能的ペプチド結合アッセイ(functional peptide-binding assays)、古代DNA解析(ancient DNA analysis)などの先進技術を活用しながら、MHCがどのようにして進化的に維持され、免疫系の多様性と適応力に寄与しているのか、その精緻な進化論的ロジックの解明が期待されます。

引用文献

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