「染色体の転座」とNIPT、そして日本の中絶のリアルな現状

1. はじめに:高齢出産とダウン症への不安

「高齢出産だからダウン症の確率が高いかもしれない」「ダウン症の原因は母親の年齢のせいなのだろうか」。妊娠が判明した喜びと同時に、スマートフォンで一人ネット検索を繰り返し、このような不安に押しつぶされそうになっている妊婦さんやご家族は決して少なくありません。

結論から申し上げますと、医学的な観点において、母親の年齢とダウン症(21トリソミー)の発生確率が密接に関係していることは紛れもない事実です。しかし、実は「母親がどんなに若くても、一定の確率でダウン症の子供が生まれる可能性がある」という医学的真実をご存知でしょうか。

本コラムでは、感情論を抜きにした客観的なデータと医学的根拠に基づいて、ダウン症の本当の原因、NIPT(新型出生前診断)の意義、そして世間ではあまり語られることのない日本における中絶のリアルな数字について、医師の本音を交えながら解説していきます。

2. データが示す「母親の年齢」とダウン症の関係

ダウン症と母親の出産年齢の間には、残念ながら明確な相関関係があります。具体的なデータを見てみましょう。

ダウン症の子供が生まれる確率は、母親の年齢とともに上昇します。おおよその目安として、35歳の出産では約400人に1人、40歳では約100人に1人、そして45歳になると約30人に1人という割合にまで急激に上昇することが分かっています。この確率の上昇カーブは、母親の年齢が35歳を超えたあたりから急速に急勾配を描き始めます。これが、医学的に35歳以上が「高齢出産」と定義づけられ、様々なリスクが指摘される大きな理由の一つです。

しかし、ダウン症の原因を「母親の年齢だけ」に押し付けるのは医学的に完全に間違っています。ダウン症の発生には、実は「お父さんの年齢」も関係しているのです。

3. お父さんの年齢もダウン症に関係する?精子の老化

男性は生涯にわたって精子を作り続けることができますが、年齢を重ねるにつれて、精子を作り出す機能そのものは確実に老化していきます。

加齢に伴って、精子が形成される細胞分裂の過程において、染色体がうまく分かれない「分離不全」という現象が起こりやすくなります。この精子側の染色体異常が、わずかではありますが年齢とともに上昇していくのです。現在の研究では、ダウン症の約3%から10%は、父親(精子)側の染色体異常が原因で発生していると考えられています。

さらに、現実的な問題として、父親が高齢である場合、パートナーである母親も高齢であるケースが多く見受けられます。母親の卵子の老化と、父親の精子の老化という2つの要素が重なり合うことで、ダウン症をはじめとする染色体異常のリスクは相乗的に高まると言われています。「高齢出産のリスク=女性だけの問題」と捉えるのは、医学的に見て不適切であるということを、ご夫婦で共有していただくことが大切です。

4. 若くてもダウン症が生まれる理由:「染色体の転座」とは

「それでは、35歳以上の高齢出産に該当する人だけが検査を受けたり、気をつけたりすればいいのか?」というと、それは大間違いです。実は、ダウン症の約10%は、父親や母親の年齢に全く関係なく発症することがわかっています。

ダウン症の90%は、前述したような加齢による突発的な細胞分裂のエラーが原因です。しかし、残りの10%は「染色体の転座(てんざ)」と呼ばれる現象が原因で引き起こされます。

「転座」とは、染色体の一部がちぎれて、別の染色体にくっついてしまう現象を指します。例えば、ダウン症の原因となる21番染色体の一部がポコッと外れて、隣にある14番や15番といった別の染色体の上に乗っかってしまうケースです。

この転座が起きているご本人は、染色体の場所が移動しているだけで遺伝子の総数自体は過不足なく揃っているため、健康上の問題は全くなく、正常に生活を送ることができます。まさか自分の染色体の一部が別の場所に乗っている(転座を持っている)などと、考えたことすらなく過ごしている方がほとんどです。

しかし、この転座を持っている人が精子や卵子を作る過程(減数分裂)においては、染色体が均等に分かれず、結果として21番染色体の一部が重複した状態(トリソミー状態)の受精卵ができやすくなります。片方の親がこの転座を持っている場合、最大で約10人に1人の確率でダウン症の子供が生まれるとされています。

もし、ご自身や親族の中にダウン症の方がいる場合や、ダウン症の妊娠を繰り返している場合は、両親のいずれかがこの「転座」を潜在的に持っている可能性が考えられます。つまり、20歳であっても19歳であっても、この転座を持っていれば年齢に関係なくダウン症の子供が生まれる可能性があるのです。

5. NIPT(新型出生前診断)の意義と限界

ダウン症は、タバコを吸ったから、お酒を飲んだから、あるいは生活習慣が悪かったから発生するものではありません。細胞分裂時の偶然のエラー、あるいは親から受け継いだ転座が原因であり、生活習慣を改めたからといって防げるものではないのです。

だからこそ、妊娠中に赤ちゃんの染色体の状態を知るための検査であるNIPT(新型出生前診断)が重要な意味を持ちます。NIPTは、母親の血液を採取するだけで、お腹の赤ちゃんがダウン症(21トリソミー)などの染色体異常を持っているかどうかを高精度でスクリーニングできる検査です。点座が原因であれ、加齢が原因であれ、21番染色体が3本(相当)ある状態であれば、NIPTで異常として検出することが可能です。

ここで、多くのご夫婦が直面する非常に重い現実があります。「もしNIPTで陽性(ダウン症の疑いあり)という結果が出たら、一体どうすればいいのか?」という問題です。

6. 陽性判定後の現実:中絶という選択と世間の目

NIPTで陽性となった場合、確定診断のために羊水検査が行われます。そして、羊水検査でも陽性が確定した場合、世界的なデータを見ても、約95%のご夫婦が「人工妊娠中絶」を選択しているという厳しい現実があります。

この事実に対して、「病気だと分かったからといって中絶するなんて命の選別ではないか」「せっかく授かった命を中絶するのはいかがなものか」と、厳しい意見を投げかける人が世間には存在します。こうした世間の批判的な目がプレッシャーとなり、「もし陽性が出た時に中絶という選択を迫られるのが怖いから、最初からNIPTを受けない」と考える妊婦さんも少なくありません。

しかし、遺伝学の専門医として、そして医療の現場に立つ者として、中絶という選択を責めることは誰にもできないと考えます。

障害を持つ子供を育てていくことは、想像を絶する困難を伴う場合があります。これまでの生活スタイルや働き方を大きく変えざるを得ないこともあるでしょう。もちろん、そうした困難を家族で乗り越えていく覚悟を持てるご夫婦もいらっしゃいます。それは大変素晴らしいことです。しかし、自身の生活環境や経済状況、精神的なキャパシティを冷静に考慮した結果、「やはり育てていくのは難しい」と判断し、中絶という苦渋の決断を下すことも、ご夫婦に与えられた一つの選択肢として尊重されるべきです。

7. データで見る日本の中絶のリアルな数字

ここで、世間の批判がどれほど現実のデータと乖離しているかを示す、具体的な数字をお伝えします。

2024年度の日本国内における人工妊娠中絶の総数は、おおよそ「年間12万7,000件」に上ります。

一方で、NIPTを受けて陽性となり中絶を選択する人はどれくらいいるのでしょうか。例えば、日本の年間出生数を約70万人とし、そのうちの2割(14万人)がNIPTを受けたと仮定します。NIPTで陽性となる確率は約2%ですから、陽性者は約2,800人となります。(実際にはもっと少なく、2,000人弱と推測されます)。

さらに極端な仮定として、年間70万人の妊婦全員がNIPTを受けたとしましょう。その2%が陽性だとしても1万4,000人です。

日本全体で行われている年間約12万7,000件の中絶のうち、NIPTの陽性を理由とした中絶は、どんなに多く見積もっても「全体の1割程度(あるいはそれ以下)」に過ぎないのです。

残りの9割以上の中絶は、経済的な理由、望まない妊娠、性被害など、様々な「やむを得ない事情」で行われています。それらの中絶事情と比べたとき、「お腹の赤ちゃんに重大な染色体異常という病気があった」という事実は、中絶を選択する上で十分に重く、理解されるべき理由の一つではないでしょうか。

NIPTの陽性を理由とした中絶だけが、ことさらに「命の選別」として厳しく非難される風潮には、少なからず違和感を覚えます。周囲の目を気にしてNIPTを受けること自体を罪悪感のように感じる必要は全くありません。

8. まとめ:正しい知識を持ち、夫婦で選択する権利

本コラムの内容をまとめます。

  1. ダウン症の約90%は母親・父親の年齢に関係して発生しますが、残りの10%は「染色体の転座」など年齢に関係なく発生するケースがあります。
  2. ダウン症の発生は生活習慣で防げるものではなく、両親のどちらのせいでもありません。
  3. 高齢かどうかにかかわらず、リスクを知るためにNIPTを受けることは医学的に意味のあることです。
  4. 万が一、NIPTで陽性となり中絶を選択したとしても、それは夫婦で真剣に悩み抜いた末の決断であり、世間の無責任な批判に過剰に傷つく必要はありません。

妊娠・出産には、常に予期せぬ出来事や重い選択が伴います。だからこそ、年齢に関わらずNIPTという選択肢があること、そしてその結果にどう向き合うかを事前に夫婦で話し合っておくことが非常に重要です。

ネット上の不確かな情報や感情論に振り回されるのではなく、医学的な事実とデータを正しく理解し、ご自身とご家族にとって最善の選択をしていただきたいと願っています。

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