不妊治療という道のりは、一度足を踏み入れると、なかなかその終わりや出口が見えなくなる性質を持っています。治療を続ける日々の中で、心身ともに消耗し、深い悩みを抱えている夫婦は決して少なくありません。
先日、ある視聴者の方から非常に切実な内容のダイレクトメール(DM)が届きました。その内容は次のようなものです。 「不妊治療を始めてから約5年が経ちました。貯金は減っていく一方であり、夫との日々の会話も、今や検査結果に関する話ばかりになってしまっています。正直に言って、今の状態はとても苦しいです。しかし、もしここで治療をやめてしまったら、これまでに重ねてきた大変な苦労や努力が、すべて無駄になってしまうような気がして、どうしてもやめることができません。これから一体どうしたらいいのでしょうか」
この悩みは、この方一人だけのものではありません。同じように終わりを決められず、苦しみのループの中にいる方は非常に多いのではないでしょうか。そこで今回は、決して根拠のない感情論で語るのではなく、医学的視点、経済的視点、そして心理的な視点という3つの明確な軸から、不妊治療を終わるべき、あるいはやめるべき「3つのタイミング」について、客観的なデータを示しながら詳しくお話ししていきます。
日本の不妊治療を取り巻く環境は、2022年を境に大きく変化しました。2022年から不妊治療に対して健康保険が適用されるようになったのです 。この公的医療保険の適用が始まったことにより、「人工授精(治療)の回数を何度も重ねていけば、いつかは子どもを授かることができるだろう」と期待を持つ夫婦が増えたことは事実でしょう。
しかし、ここで見落としてはならない重要な現実があります。健康保険が適用される回数には、明確な上限(制限)が設けられているという点です。保険適用となる回数の判定基準は、「最初の治療計画を作成した時点」の女性の年齢によって厳格に分けられています。
具体的には、治療計画を作成した時点で「40歳未満」の女性の場合、保険が適用される回数は子ども1人につき通算で「6回」までと定められています 。なお、この回数のカウント方法についてですが、これは「胚移植を行った回数」を意味しています。年齢に関係なく、この胚移植の回数でカウントされます 。一方で、「採卵(卵子を取り出すこと)」に関しては、回数の制限は設けられておらず、何回行っても保険適用の対象となります。
次に、治療計画の作成時に「40歳から43歳未満」である女性の場合、子ども1人につき保険が適用される回数は「3回」へと半減します。さらに、「43歳以上」の年齢に達している場合は、不妊治療への健康保険の適用そのものが認められなくなります(適用外)。
このように、40歳未満であれば6回のチャンスがあり、無事に1人目を出産できれば、2人目の子どものために再びリセットされて新たに6回まで保険を使うことが可能ですが 、年齢が上がるにつれて公的サポートの枠組みは急激に狭まっていくのが不妊治療の厳しい実態です。
不妊治療のコストパフォーマンス(費用対効果)は、女性の年齢が「35歳」を迎える頃から徐々に低下し始め、さらに「40歳」を過ぎると、その状況は一層厳しいものになっていくことが医学的なデータから分かっています。ある一定のラインを超えると、妊娠の成功率(出産率)が急落する一方で、必要となる費用が劇的に跳ね上がり、費用対効果が致命的に悪化していくのです。
ここで、年齢別の「1回あたりの出産率」と、自己負担が発生した場合の「治療にかかる費用の目安」の具体的なデータを比較してみましょう。
不妊治療(人工授精・胚移植等)の1回あたりの出産率は「30%〜40%」と、比較的高い水準を維持しています。この年齢層における、治療を卒業するまでに必要となる平均的な回数は「2回〜3回」程度です。自己負担額が発生した場合の総費用は、およそ「100万円〜150万円」が目安となりますが、健康保険が効くため、実際にはこれよりも費用を抑えやすくなります。
1回あたりの出産率は「25%〜30%」へと少し低下します。それに伴い、卒業までに要する平均回数は「3回〜4回」へと増加し、必要となる費用もおよそ「150万円〜200万円」へと上昇します。
1回あたりの出産率はわずか「3%〜5%」にまで低下してしまいます。さらに、この年齢になると先述の通り健康保険の適用を受けられなくなるため、治療費の全額を自分たちで支払う「完全自費」での対応を余儀なくされます。その結果、かかる費用は「1000万円〜1500万円」という膨大な金額に膨れ上がります。これは、高級ベンツが丸々1台買えてしまうほどの極めて重い金額です 。
45歳での治療継続を想定した場合、確率の面から計算すると、実に「100回以上」もの治療を重ねなければならない計算になります。こうなると、必要となる費用は約「3700万円」にまで達し、ここから先の上限は文字通りの「青天井」になってしまいます。
このように、限られた経済的条件の中で現実的なやめどきを設定するならば、医学的・金銭的なデータから見て「43歳」という年齢が一つの妥当なライン(やめるべきタイミング)になってくると言えます 。43歳を超えて治療を行いたいと望む場合は、健康保険に頼ることができないため、すべて自己責任において自費で支払う覚悟が必要となりますが、3700万円もの高額な資金をスムーズに支払える人は、世の中にそう多くはないのが現実です。
これまでのデータを踏まえ、感情に流されずに不妊治療の「終わり」を判断するための、3つの重要なタイミングを整理します。
1つ目のタイミングは、年齢による確率の低下と費用の高騰を天秤にかけた際、客観的に「費用対効果が合わない」と夫婦で判断した時です。特に43歳という年齢は、出産率が3%〜5%に下がり、保険適用が外れて完全自費治療(1000万円〜1500万円以上)になるため、ここを明確な区切りとするのが医学的にも経済的にも理にかなっています。
2つ目のタイミングは、不妊治療にかかる高額な費用が、夫婦の現在の生活基盤や未来の生活を揺るがし、崩壊させ始めた時です。治療を数年間続ける中で、数百万円という単位でお金が消えていき、貯金が底を突きかけてしまうケースがあります。 ここで冷静に考えなければならないのは、もし貯金をすべて使い果たして幸運にも子どもができたとしても、その後にその子どもを適切にはぐくみ、育てていくためのお金(教育費や養育費)が残されていなければ本末転倒であるという事実です。また、お金の困窮は心の余裕を奪い、夫婦関係の悪化を招きます。最悪の場合、不妊が原因で離婚に至ってしまうケースすら存在します。予算が生活や夫婦の絆を破壊し始めていると感じたら、それは明確な撤退のサインです。
3つ目のタイミングは、自分の血が繋がっている子どもを産むことへのこだわりを手放し、「血の繋がりがなくても、目の前にいる可愛い存在としての赤ちゃんを育てていきたい」と心から思える瞬間が訪れた時です。現代の日本では、様々な事情で生みの親が育てられない子どもを引き取って育てる「養子(養子縁組)」という選択肢が存在しています。この選択肢(受け入れ体制)を夫婦の心の中に迎え入れることができた時、それは不妊治療という過酷なループから抜け出すための、大きなやめどきとなります。
現代を生きる私たちにとって、「養子縁組」と聞くと、どこか非常に特殊でハードルの高いことのように感じられるかもしれません。しかし、私たちの親の世代や、さらに昔の時代に目を向けてみると、実は養子をとって育てるということは、今よりもずっと身近で一般的に行われていることでした 。
「自分のお腹を痛めて痛感した我が子(血の繋がった子ども)ではない、全く他人の子どもを、自分は本当に我が子と同じように愛することができるのだろうか」という不安を抱くのは当然の心理です。しかし、この「他人の子どもを愛する感情」には、実はしっかりとした科学的な根拠や生物学的な仕組みが存在しています。
人間には、赤ちゃんの姿形を認識したときに働く「ベビーシェーマ(ベビースキーマ)」という本能的なメカニズムがあります。ベビーシェーマとは、次のような特徴を持つ容姿を指します。
これらの特徴は、人間の赤ちゃんだけでなく、人形や、子猫・子犬といった動物の赤ちゃんにも共通して見られるものです。人間の脳は、このベビーシェーマに当てはまる対象を目にすると、脳内から強力な快楽物質である「ドーパミン」を大量に放出するようにできています。つまり、赤ちゃんという存在はその容姿そのものが、周囲の人間に「可愛い、守りたい」と思わせ、無条件に愛されるための形(シグナル)をしているのです 。これは、まだ自分一人では何もできない未熟な状態で生まれてくる人間の子どもが、大人に守ってもらって生き延びるために備えている、本能的な「生存能力」でもあります。そのため、全く血の繋がらない他人の子どもであっても、その可愛らしい姿を見るだけで、お母さんや育てる側の人間は「この子を育てたい、守りたい」という愛着の気持ちを自然と抱くことができるのです。
さらに、これを強力にバックアップする「オキシトシン」という有名なホルモンが存在します。オキシトシンは一般に「愛情ホルモン」とも呼ばれており、出産したばかりの母親においては、母乳の分泌を促すといった身体的な効果を持っています。 驚くべきことに、近年の科学研究により、このオキシトシンは自分が直接産んだ子どもではなく、「養子をはぐくみ、育てている親」の脳内からも、全く同じように分泌されていることが明らかになりました。
血が繋がっていなくても、一緒に過ごし、お世話をしていくプロセスを通じて、人間の脳内からはしっかりと愛情ホルモンが分泌されます 。この世の中には、たまたま不幸な境遇によって、生みの親の元で育てられることが叶わなかった子どもたちが存在しています。そうした子どもたちを温かく迎え入れ、自らの手ではぐくんでいくという生き方は、自分自身の血の繋がりにとらわれる不妊治療に代わる、非常に尊く、かつ確実な一つの選択肢(素晴らしい手)と言えるでしょう。

私たちは「結婚したら、夫婦になって、絶対に自分たちの子供を作らなければならない」という強い固定観念(プレッシャー)に縛られがちです。しかし、歴史を少し長いスパンで振り返ってみると、その常識は決して普遍的なものではないことが分かります。
例えば、日本の「江戸時代」に目を向けてみましょう。当時の江戸の町などでは、なんと男性の「3人に1人」が一生独身でした 。なぜなら当時の江戸には、全国から地方の男性が出稼ぎのために大量に流入しており、圧倒的に男ばかりが多くて女性が極端に少ないという、男女の人口比率の大き烈な歪み(狂い)があったからです。そのため、結婚したくてもできない独身男性が町中に溢れていました。
また、江戸時代初期から中期の日本の総人口は、およそ「3000万人」程度でずっと安定しており、今のように増えることはありませんでした。これが、現在のような「1億人を超える人口」にまで急激に膨れ上がったのは、実は「明治時代以降」のことです。当時の明治政府が「富国強兵」というスローガンを掲げ、国力を強め、戦場へと送り出す強い兵隊をたくさん確保するために、「産めよ増やせよ」という国家的な人口増加戦略を推し進めました。現代の私たちが抱いている「結婚して子どもをたくさん産み育てるのが義務であり当たり前だ」という家族観は、この明治期以降の国家戦略の波に乗って作られた、比較的新しい価値観に過ぎないのです。
現在の日本社会では「人口減少(少子化)」が深刻な問題として毎日のように叫ばれています。しかし歴史的に見れば、もともとの日本の人口は3000万人程度だったわけですから、現在の減少傾向は「かつての本来の規模に戻りつつあるだけ」という見方も成り立ちます。 さらに視野を世界に広げてみると、日本だけでなく、ヨーロッパ諸国をはじめとする世界中のすべての先進国において、例外なく人口減少(少子化)が進んでいます 。日本の合計特殊出生率は1.1〜1.2程度となっていますが、隣国の韓国にいたっては、出生率がなんと「0.6」にまで落ち込んでいます 。2人の大人からわずか0.6人しか子どもが生まれない計算になるため、劇的な人口減少が進んでいます。これらの国々と比較すれば、日本における人口の減り方は、まだ緩やかな方であるとも捉えられます。
いずれにせよ、夫婦2人から1.2人しか生まれなければ人口が減っていくのは当然の理であり、私たちはかつての江戸時代のような、人口が抑えられた多様な生き方がある時代へと再び向かっているのかもしれません。こうした歴史的背景を知れば、「結婚したからといって、何が何でも絶対に子どもを作らなければならない」と言い切れるわけではない、という柔軟な考え方に至ることができます。子どもを持たない人生を選択する人がいても、それを否定される筋合いはどこにもなく、そうした多様な生き方が認められて良いのです 。
子どもがいる家庭の生活は、確かに賑やかで楽しい瞬間がたくさんあります。不妊治療に真剣に取り組んでいる方々は、「子どもがいたらどんなにいいだろう」「家族で楽しく過ごしたい」という純粋な願いを持って日々頑張っておられることでしょう 。実際に、最初は子どもに対してそれほど強いこだわりがなかった人でも、いざ子どもが生まれて成長していくと、「本当に子どもがいて良かった、毎日が楽しい」と実感する瞬間は数多く存在します。
しかし、人生において「何が正しい選択(正解)か」は、誰にも決めることはできません。子どもを授かるために全財産を投げ打って治療を続ける道も、ある一定の年齢や費用のライン(例えば43歳、あるいは予算の限界)で綺麗に区切りをつけて夫婦2人の人生を楽しむ道も、あるいは血の繋がりを超えて養子を迎え入れ、新しい家族の形を築いていく道も、そのすべてが正解になり得ます 。
大切なのは、世間の常識や「今やめたらこれまでの苦労が無駄になる」というサンクコスト効果(執着)に囚われすぎて、自分たちの現在の生活や夫婦関係という、今ここにある最も重要な幸せを破壊してしまわないことです。
不妊治療の「やめどき」に唯一絶対の正解はありません。だからこそ、今回ご紹介した医学的な成功率のデータや経済的な負担額、そして脳科学的な愛着の仕組みといった客観的な事実を一つの参考にしながら、夫婦でしっかりと話し合い、自分たちにとって「一番良い」と納得できる最善の方法を、主体的に選んでいっていただければと思います 。あなたたち夫婦が選んだその決断の先に、それぞれの形をした本当の笑顔が訪れることを心より願っています。
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