世の中の多くの親御さんは、ご自身の我が子に対して「他者の痛みがわかる、思いやりのある優しい子に育ってほしい」という切実な願いを抱いていらっしゃることでしょう。実は、ある生命保険会社が実施した「親が子どもに望むこと」に関する大規模なアンケート調査においても、「優しい子に育ってほしい」という項目は、常にトップ3以内にランクインし続けています。これは驚くべきことに、「賢い子になってほしい」「勉強ができる子になってほしい」という学力や知力に対する希望よりも、はるかに高い順位に位置しているのです。親は本能的に、子どもが将来社会に出て豊かな人間関係を築き、充実した幸せな人生を歩むためには、単なる知能の高さよりも「優しさ」や「思いやり」といった心の豊かさが不可欠であることを、深く理解しているからに他なりません。
しかし、日常の育児現場において「優しい子になりなさい」「お友達には優しくしなさい」「おもちゃを貸してあげなさい」と口酸っぱく言い聞かせることが、実は逆効果になっているケースが少なくないことをご存知でしょうか。親としては良かれと思っての教育指導ですが、言葉でいくら「優しさ」という抽象的な概念を教え込もうとしても、子どもの脳内にある「ある物理的な条件」が満たされていなければ、それは単なる表面的なルール、あるいは押し付けられた義務としてしか認識されません。無理に優しくさせようとする圧力は、かえって子どもの心にストレスを生み出し、心からの共感性や思いやりとして定着することはないのです。
我が子を本当の意味で「心底優しい子」に育てるためには、感情論や精神論ではなく、科学的な根拠に基づいたアプローチが必要です。本コラムでは、データを元に明らかになった「優しさのメカニズム」と、人生の極めて早い段階で親が必ず実践すべき具体的な行動について解説していきます。
子どもを思いやりのある優しい子に育てるための最大の鍵、それは道徳の授業でも厳しい躾でもなく、脳内で分泌される「オキシトシン」というホルモンです。オキシトシンは、医学的・科学的な分野において別名「幸福のホルモン」や「愛情ホルモン」とも呼ばれており、人間が根源的な幸福感を感じるために必要不可欠な物質であることが証明されています。このホルモンが脳内で十分に分泌されるかどうかが、その子どものその後の人生の質を大きく左右すると言っても過言ではありません。
オキシトシンが人間の心身にもたらす恩恵は非常に多岐にわたります。
豊かな心と健やかな体の両方を同時に育むためには、子どもの脳内でこのオキシトシンをいかにして豊富に分泌させるかが、育児における最も重要なポイントとなるのです。

ここで、育児において絶対に知っておかなければならない、非常に重要な医学的事実があります。それは、このオキシトシンの恩恵を将来にわたって十分に受け取るための「脳内の受け皿」とも言うべき「オキシトシン受容体」の形成には、明確なタイムリミットが存在するということです。そのタイムリミットとは、「赤ちゃんが生まれてから生後1歳半まで」の期間です。
人間の脳は、誕生から数年間の間に爆発的なスピードで急激に成長し、生涯にわたって使用する様々な神経回路を形成していきます。特に生後1歳半までの時期は、愛情や幸福感を感じ取るための土台となるこの「オキシトシン受容体」が最も活発に作られ、かつ完成させなければならない決定的な時期なのです。もし、この生後1歳半までの間に、赤ちゃんが十分なオキシトシンを分泌する環境に置かれなかった場合、脳内にオキシトシンを受け取るための受容体が十分に作られないまま、その後の成長期を迎えてしまうことになります。
受容体が不足しているとどうなるのでしょうか。非常に恐ろしいことに、1歳半を過ぎてから、何らかのポジティブな出来事や愛情深い人間関係によってオキシトシン自体が分泌されたとしても、それを受け止める「器(受容体)」が赤ちゃんの脳内に不足しているため、幸福感や安心感を脳が適切に処理できなくなってしまいます。結果として、「どれだけ恵まれた環境にいても幸福を感じにくい」「他者への共感性が乏しくなる」といった状態に陥りやすくなってしまうのです。我が子が一生涯にわたって幸せを感じられるかどうかは、この生後1歳半までの初期段階において、親がいかにしてオキシトシンを分泌させ、受容体をしっかりと構築してあげるかにかかっています。
では、生後1歳半までの間に、赤ちゃんにどのようにしてオキシトシンを大量に分泌させればよいのでしょうか。自然界に備わった最も強力な仕組みの一つが、「母乳育児」を通じた「オキシトシン・ループ」の形成です。
母親が子どもを出産し、自らの胸に抱いて母乳を与える際、母親の脳内では大量のオキシトシンが分泌されることがわかっています。このオキシトシンは、母親自身に深い幸福の感情をもたらすとともに、母乳がより多く出るように分泌を促進する役割を果たします。そして、その母乳を一生懸命に吸うことで、赤ちゃんは十分な栄養を取り込み、満腹感と絶対的な安心感を得られます。生理的な欲求が満たされ、親の温もりを感じて安心しきった赤ちゃんは、やがて穏やかな様子になり、可愛らしい笑顔を見せるようになります。
この赤ちゃんの健やかな様子や純真な笑顔を見た母親は、我が子への愛おしさを感じ、さらなる幸福感に包まれます。すると、母親の脳内で再びオキシトシンが大量に分泌されるのです。母親が幸せで愛情に満ちた穏やかな状態で接することで、その心地よい空気感や安心感が赤ちゃんにも伝播し、お互いの間でオキシトシンが分泌され続けます。
このお互いにオキシトシンを出し合いながら幸せが増幅していくサイクルを「オキシトシン・ループ」と呼びます。この幸せのループがぐるぐると絶え間なく回る環境こそが、赤ちゃんの脳の発育、特に先述した「オキシトシン受容体」の形成において最も役立つことがわかってきているのです。
しかし、ここで一つの疑問や不安を抱く方もいらっしゃるでしょう。「母乳が出にくい体質の場合はどうすればいいのか」「全員が母乳で育てられるわけではないのに、オキシトシン・ループを作れないのだろうか」と。結論から明確に申し上げますと、全く心配する必要はありません。母乳育児はあくまでオキシトシンを分泌させるための一つの手段に過ぎず、オキシトシンを分泌させる方法は他にも確実に存在します。それが、強く推奨されている「黄金の10分間」というアプローチです。
たとえ母乳が出なくても、あるいはミルク育児であっても、1日のうち最低1回、たった10分間で構わないので、我が子と真正面から向き合う時間を作っていただきたいのです。これが「黄金の10分間」です。
具体的には、赤ちゃんの顔をしっかりと見つめ、赤ちゃんが楽しそうにしている様子や一生懸命に動いている姿を、深い愛情を持ってじっと「観察」することです。赤ちゃんは、大好きな親からじっと見つめられ、関心を向けられていることを察知すると、「自分は大切にされている」「愛されているんだ」という幸せな気持ちになり、両者の間でオキシトシンが分泌されるようになります。
さらにこの「黄金の10分間」の効果を高めるためには、ただ見つめるだけでなく、以下のようなコミュニケーションを同時に行うのが効果的です。
親から愛情を注がれるこの密度の濃い10分間が、赤ちゃんの脳内に強固なオキシトシン受容体を築き上げる最高の土台となります。母乳が出ないお母さんであっても、この「黄金の10分間」を実践することで、確実にオキシトシン・ループを形成することが可能なのです。
そして、このオキシトシン分泌のメカニズムにおいて、母親と同じくらい極めて重要な役割を担っているのが「お父さん」の存在です。「母乳を出せない父親は、オキシトシン分泌に貢献できないのではないか」と誤解されがちですが、それは大きな間違いです。
男の子であっても母親からおっぱいを吸えばオキシトシンが分泌されるように、オキシトシンは性別に関係なく、愛情と安心感によって分泌されるホルモンです。つまり、父親であっても、前述した「黄金の10分間」を実践することで、赤ちゃんと父親の間に強力なオキシトシン・ループを形成することができます。
お母さんが母乳が出ないケースと同じように、お父さんも息子さんや娘さんとしっかりと向き合っていただきたいのです。例えば、お母さんが1日10分間、全身全霊で赤ちゃんと向き合う時間を作ります。それに加えて、お父さんも1日10分間、赤ちゃんと深く向き合い、「黄金の10分間」を作るとします。お母さんの10分とお父さんの10分が合わさることで、赤ちゃんは1日に合計20分間もの「愛情を注がれる時間」を享受することになります。
この「たった20分」を形成するだけで、赤ちゃんは優しい子に育つことができるのです。両親揃っての「黄金の10分間」の実践こそが、我が子を心底優しい子に育てるための最強のチームワークとなります。
なぜ、ここまで幼少期のオキシトシン分泌と「優しさ」の基盤形成が重要なのでしょうか。それは、人間の真の幸福度が、勉強ができる・できないといった学力の指標よりも、「EQ(心の知能指数・感情指数)」によって大きく左右されることがわかっているからです。
いくら賢い子に育ったとしても、それだけで社会での成功や幸せな人生が直結するわけではありません。他者の感情を正しく読み取り、深いレベルで共感し、思いやりを持ってコミュニケーションを図る能力、すなわちEQが高ければ高いほど、豊かな人間関係を築き、幸福な人生を送れる可能性が高まります。
このEQの絶対的な基盤となる「他者への共感力」や「優しさ」こそが、オキシトシンというホルモンに関係しています。生後1歳から1歳半くらいまでの間に、赤ちゃんに十分なオキシトシンを分泌させ、脳内に受容体を形成できた子どもは、一生涯にわたって高い共感力を持ち続けることができるのです。人生の初期の段階における、お母さん・お父さんの育て方によって、子どもの未来は随分と変わってきます。
子育ての毎日は慌ただしく、常に完璧にこなすことは難しいかもしれません。しかし、「我が子を優しい子に育てたい」「幸せな人生を歩んでほしい」と願うのであれば、まずは1日たった10分間、子どもと真正面から向き合い、愛おしむ「黄金の10分間」を意識してみてください。
言葉で「優しくしなさい」と教え込むのではなく、親自身の愛情たっぷりの行動によって、子どもの脳内に「優しさの受け皿」を作ってあげること。それが、親から子へ贈ることができる、何よりも価値のある一生もののプレゼントになるはずです。
日本皮膚科学会 皮膚科専門医/日本医師会 産業医/東京衛生検査所 指導監督医
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