出産直後に我が子をすぐには「かわいい」と思えなくても、それは性格や愛情不足の証拠ではありません。海外の追跡調査でも、出産直後の時点では明確な愛情を感じていない母親が一定数いることが報告されており、母性とは出産という一度きりの出来事で完成するものではなく、授乳やスキンシップなど日々のかかわりを通じて少しずつ育まれていくものだと考えられています。本記事では、「母性本能」という考え方がどのように形づくられてきたのかを学術的な知見をもとに整理し、愛着が育つまでの一般的な経過、父親の役割、そして数週間経っても愛着を感じにくいときに確認したいポイントを解説します。
この記事でわかること
出産直後の時点で我が子への愛情をはっきりと感じない母親は、決して少数派ではありません。「お腹を痛めて産んだ瞬間、涙があふれるほどの愛情がわいた」というエピソードは、育児雑誌やドキュメンタリーでたびたび語られます。しかし、実際の学術調査に目を向けると、様子は少し異なります。
英国で行われた出産後の母親の感情に関する追跡調査(Robson & Kumar, 1980, British Journal of Psychiatry)では、初めて赤ちゃんを抱いた瞬間の感情として、初産婦のおよそ4割、経産婦のおよそ25%が「無関心」だったと振り返っています。同じ調査では、そうした母親の多くが産後1週間ほどのうちに愛着を感じるようになり、産後うつなど長期的な影響が見られたわけではないことも示されています。
私自身、外来で妊娠中の方から「産まれてもすぐに可愛いと思えなかったらどうしよう」というご相談を受けることがあります。理由の一つは、生まれたばかりの赤ちゃんの実際の姿にあるようです。メディアに映る赤ちゃんは、生後数ヶ月が経って肌がふっくらとし、表情が豊かになった状態であることがほとんどです。一方、出産直後の新生児は羊水に包まれて全身にしわがあり、思い描いていたイメージとのギャップに戸惑う方も少なくありません。
メディアのイメージと、目の前にいるリアルな赤ちゃんの姿とのギャップ。出産直後に一目で「かわいい」と思えなくても、生物学的に不思議なことではないというのが、これらの調査から読み取れる知見です。
母親と赤ちゃんの愛着は、出産という一度きりの出来事で完成するものではなく、日々のやり取りを重ねながら段階的に育っていくものと考えられています。先述の調査でも、出産直後に愛着を感じなかった母親の多くが、その後1週間ほどの入院期間や日々のお世話を通じて、少しずつ我が子への愛着を強めていったことが分かっています。
| 時期 | 多くの母親に見られる傾向 |
|---|---|
| 妊娠中 | 胎動をきっかけに愛着を感じ始める人もいれば、まだ実感がわきにくい人もいます |
| 出産直後 | 強い愛情をまだ感じない、または無関心に近い状態の母親が一定数います |
| 産後数日〜1週間 | 授乳やスキンシップを重ねる中で、愛着を感じ始める母親が増えていきます |
| 産後数週間〜数ヶ月 | ほとんどの母親が、日々のかかわりを通じて安定した愛着を築いていきます |
この経過が示しているのは、最初から我が子を強く愛おしいと感じられるかどうかは、母親としての資質や愛情の深さを測る基準にはならないということです。焦る必要はどこにもありません。
「女性には生まれつき母性本能が備わっている」という考え方は、生物学的な事実というより、歴史的・社会的に形づくられてきた側面が大きいと指摘されています。この視点を広く知らしめた研究として、フランスの哲学者エリザベート・バダンテールによる著作『母性という神話』があります。
同書では、18世紀後半のヨーロッパで経済的・社会的な要因が重なり、母親の役割や母性愛が強調されるようになった経緯が分析されています。国内の大学紀要でもこの議論が紹介されており、母性愛を「生まれつきの本能」と決めつける見方そのものが、近代以降に強調されてきた考え方だという指摘がなされています。母性を「本能」だと決めつけることは、うまく愛せないと感じる母親を追い詰める側面があると考えられます。
近年の内分泌学的な知見からも、母親としての愛着は生まれつき完成した本能というより、オキシトシンなどのホルモンの作用と、授乳やスキンシップといった経験が積み重なることで育まれる行動だと理解されています。「本能があるかないか」という二択ではなく、「経験を通じて育っていく愛着」という捉え方のほうが、実態に近いといえるでしょう。
オキシトシンというホルモンは、授乳やスキンシップなど日々のかかわりを重ねるたびに分泌され、母親と赤ちゃんの絆を強めていきます。オキシトシンは「愛情ホルモン」「抱っこホルモン」とも呼ばれ、人が安心感や心地よさを感じる場面で脳内から分泌されることが知られています。
出産の際には、子宮の収縮を促す目的でオキシトシンが多く分泌されます。ただし、初めての出産では陣痛から出産まで長時間を要することも珍しくなく、心身が極度に疲弊した状態で赤ちゃんと対面することになります。そうした状況では、真っ先に湧き上がるのが高揚した愛情よりも、無事に出産を終えた安堵感であっても不自然ではありません。
出産時に十分な愛着を感じられなかった場合でも、その後の育児行動がオキシトシン分泌の引き金になります。
授乳、スキンシップ、アイコンタクト――日々の積み重ね。こうした関わりを繰り返すたびにオキシトシンが分泌され、脳が少しずつ「この子のお世話をしたい」というモードへと切り替わっていくと考えられています。

父親であっても、日常的な育児行動を重ねることで、母親と同じようにオキシトシンが分泌され、愛着が育っていくことが分かっています。「男性だから母性本能のようなものは初めから備わっていない」と、育児から距離を置いてしまう父親も少なくありませんが、こうした固定観念は近年の研究によって見直されつつあります。
行動内分泌学の分野では、育児経験のないオスのラットを子どもと一定期間同居させると、次第に子どもを巣に運んだり世話をしたりする行動が誘発されることが確認されています。継続的なかかわりそのものが脳のネットワークを変化させ、養育行動のスイッチを入れるという考え方です。人間の父親についても、同様のしくみが働くと考えられています。
おっぱいをあげることはできなくても、父親にもできることがあります。
これらを定期的に行うことで、父親の脳内でもオキシトシンが分泌されることが分かっています。パートナーとの信頼関係を深めたり、日々のストレスをやわらげたりする効果も報告されており、育児への参加は父親自身の心身にとっても意味のある行動だといえます。
産後数週間から数ヶ月が経っても強い無関心や嫌悪感が続く場合は、性格や努力の問題ではなく、「産後うつ」や「極度の睡眠不足」が関係していないかを確認する必要があります。ほとんどの母親は日々のかかわりを通じて愛着を育んでいきますが、一部にはこうした状態が長引くケースもあります。
産後うつは、ホルモンバランスの急激な変化や環境の変化によって生じる心の不調で、日本周産期メンタルヘルス学会や日本産科婦人科学会・日本精神神経学会の診療ガイドでも、産後の重要なメンタルヘルス課題として位置づけられています。我が子への強い無関心や嫌悪感が続く背景に産後うつが関わっていることもあり、これは母親の愛情不足や努力不足によるものではありません。長引く場合は、産婦人科や精神科など専門の医療機関に相談してください。産後うつのサインや対処法については、妊娠中・産後のうつ徹底対策ガイドでも詳しく解説しています。
新生児期に多くの親を悩ませるのが夜泣きです。夜間に何度も起こされる状態が続くと、慢性的な睡眠不足に陥り、感情をコントロールする脳の働きが低下しやすくなります。心の余裕がないときに、目の前で泣き続ける我が子に「愛おしい」という感情を抱きにくくなるのは、自然な防衛反応だと考えられています。診療の場でも、慢性的な寝不足の中で「自分の性格が悪いから愛せないのだ」と思い込んでいらっしゃる方にお会いすることがあります。夜泣きの時期はいずれ落ち着いていくものであり、その間は一人で抱え込まず、周囲の力を借りることが大切です。産後の体力回復については、出産後の体ケアと必要なアイテムもあわせてご覧ください。
産後の心身のケアは母親一人が背負うものではなく、公的な産後ケア事業やパートナー・家族の協力を組み合わせて対応することが推奨されています。市区町村が実施する産後ケア事業では、助産師など専門職による心身のケアや相談支援を、短期入所・通所・訪問などの形で受けられます。厚生労働省とこども家庭庁のガイドラインでも、妊産婦の孤立感を解消することが事業の目的として明記されています。
パートナーと育児の負担を分け合う工夫については妊娠中にできるパートナーとの絆を深める工夫で、外出が難しい時期の相談手段としては妊婦向けオンラインカウンセリング活用法で紹介しています。「うまく愛せない」という気持ちそのものへの向き合い方は、妊婦の不安を軽くするマインドセットもあわせて参考にしてください。周囲の手を借りることは甘えではなく、母子ともに健やかに過ごすための現実的な備えです。
出典:厚生労働省「産前・産後サポート事業ガイドライン/産後ケア事業ガイドライン」 / こども家庭庁「産後ケア事業について」 / 日本周産期メンタルヘルス学会 / 日本精神神経学会・日本産科婦人科学会「精神疾患を合併した、或いは合併の可能性のある妊産婦の診療ガイド」 / 静岡県立大学短期大学部紀要「エリザベート・バダンテール著『母性という神話』」
珍しいことではありません。海外の追跡調査でも、出産直後の時点で明確な愛情を感じていなかった母親が一定数報告されており、多くはその後数日から1週間ほどの間に少しずつ愛着を感じるようになっています。
「出産すれば自動的に強い愛情がわく」という意味での本能は、生物学的な事実というより歴史的・社会的に強調されてきた側面が大きいと指摘されています。一方でオキシトシンなど、育児行動を促すホルモンのしくみ自体は存在しており、愛着は経験を通じて育っていくものと理解されています。
個人差はありますが、多くの母親は産後数日から1週間ほどの間に授乳やスキンシップを通じて愛着を感じ始め、数週間から数ヶ月かけて安定した絆を築いていく傾向があります。急いで結論を出す必要はありません。
沐浴やスキンシップ、声かけなどの育児行動を重ねることで、父親の脳内でも母親と同様にオキシトシンが分泌されることが分かっています。おっぱいをあげられないことは、愛着が育たない理由にはなりません。
自分を責める前に、産後うつや極度の睡眠不足が関係していないかを確認してください。産婦人科・精神科などの専門医療機関へ相談することで、心の負担が軽くなっていくケースが多くあります。
お住まいの市区町村が実施する産後ケア事業では、助産師など専門職による心身のケアや相談支援を受けられます。産婦人科や地域の子育て世代包括支援センターでも相談窓口を案内しています。
「母性本能」という言葉が示す、出産すれば自動的に強い愛情がわくというイメージは、学術的に見ると実態とはずれがあります。愛着は経験を通じて育つもの――今回の内容を、3つのポイントに整理します。
育児は母親一人、あるいは夫婦だけで抱え込むものではありません。公的な産後ケア事業や周囲の力を借りながら自分の心身を整えていくことが、結果として我が子との絆を育むための近道になります。「うまく愛せない」と自分を責めている方が、この記事をきっかけに少しでも肩の力を抜いて過ごせるよう願っています。
日本皮膚科学会 皮膚科専門医/日本医師会 産業医/東京衛生検査所 指導監督医
この記事は、 ヒロクリニックNIPTの編集・監修体制 にもとづき、資格を持つ医師が内容を確認しています。
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